カナディアンライフ

カナディアンライフ働く母さん、カナダ子育て奮戦記 その20  By Yasuko Garlick(ガーリック康子)

学校給食


学校給食

    うちの子たちが、日本の小学校の体験入学で一番好きなのは、お勉強の時間ではなく、給食の時間だ。時々、苦手なものが献立に出てくることもあるが、ほとんど残さず、お替わりまでするようである。実際に献立表を見ると、近頃の給食は、私が知っている給食とはかなり違う。主食はほとんどご飯で、パンは滅多に出ない。パンが出ても、昔みたいに白い食パンにマーガリン、なんてことはない。献立表を見ただけで、食べたくなるようなものばかり。嫌いなものでも、とりあえず一口は食べようという約束はあるようだが、強制的に全部食べさせることはしないようだ。

学校給食    いつもお世話になる学校の給食は、給食センターで作る給食ではなく、私にも馴染みの深い給食室で、「給食のおばさん」が作ってくれる自校給食。栄養士さんもいて、栄養のバランスをよく考えた献立になっている。献立表には、料理に使った材料も載っている。地場の農作物も取り入れられている。その内容が素晴らしい。純和風の筑前煮やひじきご飯なんかもあるが、ナムルやパエリア、タンドリチキンと、国際色豊かである。カルシウム補給に、うちの子たちが大好きな煮干しも出る。

    それから「ソフト麺」はもう出ない。市販の麺類のように、四角いビニール袋に入っていて、正式名称は、「ソフトスパゲッティー式麺」という。この麺にソースをかけるというより、お椀に入ったソースに麺を入れるのだが、大概ミートソースかカレーソースだった。特に好き嫌いが多かった覚えはないが、あの「ソフト麺」だけは、どうしても好きになれなかった。カレーソースの時は何とか食べられたが、ミートソースの時は、食べる前からうんざり。そのソースの味に馴染めず、絶対全部は食べられない。

学校給食    私がそある時期通っていた小学生では、給食を時間内に食べられないと、昼休みも食べ終わるまで残された。あれは、苦痛以外の何物でもない。しかも、食べ終わった食器は、自分で給食室に持って行かなくてはならない。これは、幼心に屈辱的だった。どちらかというとゆっくり食べるほうだった私は、ソフト麺にミートソースの時は、ほとんどいつも一番最後。一度どうしても全部食べきれず、無理して食べようとして気持ち悪くなり、危うく小間物屋を開いてしまいそうになった。思い倦ねた小学生の私は、いけないこととは知りながら、残りをこっそりゴミ箱に捨ててしまった。そんなことを考えると、カナダのように家からお弁当を持って行くのは、苦手なものを入れずにすむので、悪くないかもしれない。けれども、お弁当を作る側としては、本当に時間がない時、給食があればいいなあと思うことも時々ある。

    そさて、学校給食は、一体いつから始まったんだろう?インターネットで検索してみると、日本で最初の学校給食は、明治22年に山形県で、現在の鶴岡市の大督寺境内に建てられた私立忠愛小学校で始まったと言われている。貧困児童を対象に、この小学校を建てたお坊さんが、おにぎり、焼き魚、漬け物といった昼食を無償で出した。それから徐々に日本中に広まり、第二次世界大戦中に下火になったが、戦後再開され、学校給食法が施行された昭和29年には、法的にも全国で完全給食が始まった。

学校給食     ところで、給食を食べるには、基本的に給食費を支払う必要がある。ところが最近では、生活困窮が理由で「払えない」のではなく、経済的に払えるのに「払わない」親がいるという。この種類の親達は、我が子が学校で給食を食べているのに、滞納が続いても、はなから給食費を支払う気がないらしい。それでは「無銭飲食」ではないか。親の責任感や規範意識の問題かと思うが、こんな親に育てられた子どもは、どんな大人になるのだろう。あまり考えたくない。
取り留めもない話になってしまったが、良いにつけ悪いにつけ、給食にはいろいろな思い出がある。もちろん、懐かしい思い出(献立?)もたくさんある。何だか、無性に給食が食べたくなってしまった。

Yasuko GarlickYasuko Garlick(ガーリック康子)

主に翻訳、通訳、チューターを生業とする2児の母。夫はカナダ人。
数カ国に滞在後、現在カナダ在住7年目。
只今、何か新しいビジネスを始めようと模索中。。



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