カナディアンライフ

カナディアンライフ働く母さん、カナダ子育て奮戦記 その25  By Yasuko Garlick(ガーリック康子)

東日本大震災 


東日本大震災 

    日本が大きく揺れた。
その日は、知り合いと食事に行く約束があって出かけていた。インド料理をたらふく食べて家に戻り、いつも通り日本のニュースを聴き始めた。すると、とんでもないニュースが耳に飛び込んで来た。一瞬、自分の耳を疑ったが、慌てて実家に電話した。弟が出た時点でヤバいと思った。いつもなら母が出る。弟曰く、何度も電話をかけようとしたが、繋がらなかったらしい。母から弟に、池袋駅で立ち往生しているという電話がかかってきた。地震の影響で、たまたま出かけていた東京で足止めを食ってしまったのだ。JR、私鉄とも全面ストップ。近くでビジネスホテルを探して泊まるつもりだった母に、駅近くの某大学が、一時避難所としてキャンパスを提供していることを弟が伝えたが、弟にできることはとりあえずそこまで。あとは母の判断に任せるしかない。一番心配だったのは、具体的な母の所在がわからなかったこと。現地での状況が掴めないので、遠く離れた私は、ひたすら母が無事に帰宅することを願うしかなかった。

    母が足止めを食っていると聞いてから、家にいる間、ずっと日本からのニュースを見続けた。翌日もこちらは平日なので、子供たちは普段通り学校に行き、帰って来た。その間私は、仕事の合間を縫って、ずっと日本のニュースを見続けた。二ヶ月前からの予定で、夕方から仕事がらみの食事会に出席することになっていた。いつ電話がかかってきてもいいように、家の固定電話から、私の携帯に転送するようにして出かけた。食事は美味しかったし、気を紛らわす役には立ったが、「心ここにあらず」状態の私は、あまり楽しめなかった。

東日本大震災     結局、再び連絡があったのは、帰宅して丁度ドアの前で鍵を開けようとしている時だった。日本時間で、土曜日の午後2時頃。東京都区内は、朝から一部運転を再開した路線もあった。しかし、乗り継ぎの路線は止まったままなので、途中までしか戻って来られないため、母はタクシーで帰ってくるという。結局、母が家に戻ったのは、それから2時間以上経ってからだった。とりあえず無事だということはわかっていたが、大きな余震の心配もある。家に戻ったという連絡を受けるまで、全く落ち着けなかった。無事がわかっていてもこれほど心配なのだ。連絡が取れなかったら、胸がつぶれるほど心配だろう。

東日本大震災     阪神淡路大震災が日本を襲った時も、私は日本にいなかった。もう16年前になるが、その頃はインターネットが今ほど普及していなかったので、ニュース源というと、専ら新聞や、テレビ、ラジオなどの地元のメディア。あれだけ大きな地震だったのに、状況がわかるまで暫くかかった記憶がある。しかし、今回は、オンデマンドの放送だけでなく、日本のニュースがライブで視聴できた。番組放送中に余震が起き、実際にカメラの映像が揺れることさえあった。放送された映像の中には、あまりに悲しくて涙が流れてくるものがあったのも事実である。インターネットの他にも、フェイスブックやツイッターなどのソーシャル・ネットワークで、逐次、日本の情報が発信された。中にはとんでもないデマもあったが、それでも、今何が起きているかが即座にわかる。これは、海外に住んでいるとかなり心強い。

    東日本大震災のニュースは世界を駆け巡った。地震と津波への、日本の対応を目の当たりにした海外のメディアが、日本人のモラルの高さや忍耐力の強さ、日本の技術力の高さを称賛している。世界が、日本の底力を垣間見たのだ。今まで、これほど日本人であることに高い誇りを感じたことはない。

     あれから一ヶ月。今も行方不明の方が沢山いる。住んでいた家が跡形もなくなり、避難所生活を余儀なくされている方もいる。亡くなった方の数は、阪神大震災を上回っている。福島原発の二次災害も起きてしまった。自分の生まれた国がこんな状態なのに、日本国内で直接お手伝いができないことが、本当に歯痒くてならない。けれども、海外からでもできる地道な協力が、日本、特に被災地の復興に役立てばと心から願う。
カナダからも「がんばれ、日本!」

Yasuko GarlickYasuko Garlick(ガーリック康子)

主に翻訳、通訳、チューターを生業とする2児の母。夫はカナダ人。
数カ国に滞在後、現在カナダ在住7年目。
只今、何か新しいビジネスを始めようと模索中。。



Top of page


1981-2009 Copyright (C) Japan Advertising Ltd. Canada Journal, All rights reserved.