ライフ - 連載コラム記事
カナダに住む(Live in Canada)

バーテンダーという職業に魅せられて、
本場ベガスで武者修行



一杉 昌輝さん 

一杉 昌輝さん 31歳
(ひとすぎまさき)

愛知県名古屋市出身

“バーテンダーという仕事を選んだのではなく、バーテンダーという人生を選んだと言える自分でありたい”

 そう語るのは、フレア・バーテンダー歴15年の一杉さんだ。国際バーテンダー協会によるトップの資格をもつ。フレアとは、映画「カクテル」に出てきたような、パフォーマンス性の高いカクテル作りのことで、エンターテイメントの聖地・ラスベガスが本場だ。有名店やホテルで腕を磨いた一杉さんは、日本代表としてアメリカの世界大会に出るほど評価が高く、ワインや料理の知識にも精通している。

 地元名古屋の観光専門学校に在籍している時に、「家から近い」という理由で選んだアルバイト先が、一杉さんの運命を変えた。本格的なフランス料理を出すその店は、芸能人も利用するというレストランバーだった。「ギャルソン」として入店した一杉さんは、そこで接客業のおもしろさを知るようになり、卒業後、同店に就職、バーテンダーとなった。



上海、そしてラスベガスへ


上海での練習風景

 6年勤めた後、全日空ホテルのレストランバーを経て、「上海の店を任せたい」という話が舞い込んだ。当時一杉さんはアメリカで本場のフレアを学びたいと思っていたが、まずは上海に行ってみることにした。渡海して間もなく、反日デモが起こり、近隣の日本関係の店や車が片っ端から破壊されるという事件に遭遇した。勤務先は日本国総領事館の近くでにあり事件現場のまさに中心部。裏口から走って逃げるという恐怖の体験もした。店外でも、殺気立った中国人に「日本人か」と聞かれ、とっさに「韓国人だ」と答えて事なきを得たこともあった。 1年後の2006年3月に帰国。そしてすぐに、念願のラスベガスへ旅立った。



バンクーバーで大会に出場

一杉 昌輝さん 

バンクーバー郊外・ホワイトロックで
行なわれた大会で

 

 ラスベガスに来て1ヵ月。大会が開かれるという情報を得て、「せっかくベガスに来たのだから」と、出てみることにした。上海の大会以来、約1年ぶりだ。出場を決めた直後、訪れたバーで大会の審査員と会い、飛び入りでフレアショーに参加することになった。彼らと何件もバーを回り、技を披露した。言葉が通じなくても、フレア・バーテンダーの世界は“同志”という厚い友情で繋がっている。日本人が珍しいため世界中どこの大会に行っても、「Masaki!」と、声を掛けられる。大会の成績は不振だったが、一杉さんは大きな友情を築いた。

キャンパスナビ

ルームメートらと行った
バンクーバー・グラウス山




 その後、カナダのバンクーバーで大きな大会が開かれることを知り、しばらくバンクーバーに滞在することにした。入国審査では係官に滞在の理由を説明するためフレアを見せることになった。降り立ったバンクーバーは涼しく、快適だった。住まいはネットで探し、ダウンタウンのシェアルームを見つけた。アーティストの家主とすっかり意気投合し、大会用のオリジナルBGM(バックグランドミュージック)まで作ってもらった。問題は、大会で必要な酒瓶集めだ。バンクーバーでは空き瓶が換金できるため、なかなか手に入らないのだ。飲食店を回ってみたが、譲ってもらえない。そこで一杉さんは、酒屋の前で空き瓶の寄付を求めてフレアをしたり、ネットの掲示板に書き込んだりした。しかし思うようには空き瓶は集まらなかった。このためか、大会は予選落ちだったが、ラスベガスなどで知り合ったフレア仲間との再会を大いに楽しんだ。

 8月末、ラスベガスへ戻った。名古屋時代の常連客の紹介で、プール付きの大豪邸に住まわさせてもらえることになった。隣家はプロテニスプレイヤーのアガシが住んでいるという高級住宅街だ。「多くの人に支えられて自分がいる。接客業をしてきて本当に良かった。縁や出会いに感謝したい」と一杉さんは思う。ラスベガスに戻ってすぐにまた大会に出場した。ここでも成績は振るわなかったが、仲間との楽しい時間は最高だった。そしてバーテンダー仲間の結婚式にも呼ばれた。移動手段は自転車に変わり、炎天下でペダルを踏む姿も板に付いた。
「今ここに僕がいられるのも、これまで出会ったすべての人のお陰です。まだまだ僕は未熟。人間性を磨かなければ。初めてお客様にカクテルを出した、あの日の事を忘れずに」。

一杉さんのブログ『流離のBartender』 http://plaza.rakuten.co.jp/ondining/

 

Top of page